「仏教は心の教育をしてくれる」 現代における仏教の意義を「泰岳寺」副住職・泰丘良玄さんに聞いてみた

こんにちは、DATEMAKI編集部の野阪です。

「寺社をもっと楽しくするWebメディア」をコンセプトに運営しているDATEMAKI。ありがたいことに、多くの寺社関係者にご覧いただいており、評判も上々です!

しかし、肝心の寺社に関わりが薄い方々に広まっているかと問われると、まだまだ……。

多くの方々にとって寺社を身近なものにするためには、もっと面白く、わかりやすく、それでいて深みのある発信しなくては!

……と、そんなふうに考えていたときに見つけたのが、こちら。

な、なんだこのブログ……。

修行僧の1日のスケジュール」や「心はどこにあるのか」など、気になることがすごくわかりやすく書かれている! しかも、難しそうなお経を唱えているお坊さんとは思えないほど、絵文字がふんだんに盛り込まれていてカラフル!

形式は少し違えど、今後の発信のヒントとなるものがたくさんありそう。ぜひこのブログを書いているお坊さんに、話を聞いてみたい!

……ということで、

寶雲山 泰岳寺(ほううんざん たいがくじ)

今回はこのブログを運営している泰丘 良玄さんに、仏教を広めていくための心得や、禅宗の特徴、現代における仏教の意義など聞いてみました!

泰丘 良玄(やすおか りょうげん)さん
愛知県春日井市にある臨済宗妙心寺派(禅宗)「泰岳寺」の副住職。お寺の中だけでなく、ブログや書籍、テレビ(『ぶっちゃけ寺』、『バイキング』)などを通じ、仏教を精力的に布教している。著書に『理工学部卒のお坊さんが教えてくれた、こころが晴れる禅ことば』『お坊さんの修行に学ぶていねいな生き方、暮らし方』などがある。

まずは座禅を体験してみよう!

臨済宗妙心寺派(禅宗)ということで、最初に座禅(正確には、坐禅)を体験させていただきました。

まずは脚の組み方。座禅には「半跏趺坐(はんかふざ)」と「結跏趺坐(けっかふざ)」という2種類の座り方があります。

半跏趺坐

半跏趺坐・・・片脚を組む座り方。片脚をもう片方の脚の上に乗せます。

結跏趺坐

結跏趺坐・・・両脚を組む座り方。半跏趺坐の状態から、反対の脚も同様に乗せます。

どちらの座り方でも問題ありませんが、結跏趺坐の方が脚が固定されるため、長時間座るのに向いているのだそう。

次に姿勢を調えます。長時間座るためには背筋を伸ばす必要がありますが、力が入りすぎてもいけません。頭のてっぺんから、一本の糸が吊り上げられているようなイメージをすると良いのだとか。

手の組み方はいくつか種類がありますが、こちらでは左手で右手を覆うようにして膝の上に置きます。

目線は1〜1.5mほど先を、ぼーっと見るイメージ。目を閉じてしまうと眠ってしまう可能性が高いので、半眼(少し開けた状態)にしておきます。

その状態のまま、おへその下の丹田(腹式呼吸)を意識して、ゆっくり息を吐き出し、ゆっくり空気を吸い込みます。息を吐き出す秒数を数えておくと良いでしょう(慣れてくると、1分間に5,6回呼吸できます)。

身体と呼吸を調えたあとは、心を調えていきます。座禅中は何も考えないというよりは、頭の中に浮かんできたことに囚われないイメージが大切です。たとえば、「お腹が空いた」と思ったとしても、そこから「このあと、何食べよう?」といったことを考えず、「お腹が空いた」というだけで受け流していく感じ。

ここまですれば、あとは座禅の世界に入り込むだけ。通常は30分を2回座るのですが、今回は体験ということで20分を2回で行いました。

ちなみに、座禅のイメージでよく出てくるコレもありました。

パンッ!!!

座禅中に肩を叩くこの木の棒は「警策(きょうさく、けいさく)」と呼ばれ、こちらでは自己申告制で叩いてもらえます。実際に受けてみると、良い音は鳴るのですが、思っていたより痛みもありませんので、ご安心を。

わずか20分とはいえ、ずっと同じ体勢で何も考えずにいるのはやはり大変でした。次から次へと色んなことが思い浮かんできますし、お昼時のちょうど眠たい時間帯だったので、眠気にも耐えなくてはいけません。呼吸も意識すれば意識するほど、息苦しくなるもので、いかに自分の身体や精神が自分の思い通りにいかないものかを知らされました。

また、不思議なもので、座禅中はさほど脚は痛くなかったのですが、脚を解くとジンジンと痺れ、この表情に。脚が痺れるのは、しっかりと脚が固定されている証拠だそうです。

仏教がブラックボックスである必要性


「先ほどは、座禅のレクチャーありがとうございました! 本日は仏教の発信をどのようにしていくか、そもそも仏教って広める意義があるのかなどお伺いできればと思います。改めまして、どうぞよろしくお願いいたします!」


「はい、お願いいたします!」


「泰丘さんはブログや書籍、テレビなどを通して、精力的に仏教を広げる活動されております。その活動の始まりはブログだと思うんですけど、これはどういうきっかけで始めたんでしょうか?」


「きっかけは僕が修行道場に入る際に、その情報がほとんど無かったことですね。師匠(父親)から話は伺えたのですが、師匠が修行したのは2,30年も前のことなので、どんな場所になっているのかわからなかったんです。

それで、雲水(修行僧)の生活が書かれた『雲水日記』という本や、芥川賞作家の玄侑宗久さんが書いた『ベラボーな生活 禅道場の「非常識」な日々』という本を読んだりしました。『ベラボーな生活』は玄侑さん自身が修行道場中に経験したことを面白おかしく、かつ仏教の教えを込めて紹介したもので、これから自分が入る世界のことがすごく理解できました。

でも逆にいえば、お寺で育ってきた自分ですら、仏教の世界は本当にブラックボックスだったんですよ。だったら、同じような人がいるかもしれないし、仏教を知りたい一般の方もいるかもしれない。そんなことを思って、ブログを始めました」


「自分自身が知りたかった情報を伝えていきたい、というのが始まりだったんですね。前から思っていたんですけど、仏教の世界ってどうしてブラックボックス化しているんでしょうか?」


「どうしてなんでしょう……。でも、その部分も大切なのかなと思うんです。訳がわからない、理屈じゃないところにこそ、超常的な力を感じている人もいるのかなと。それがブラックボックス化に繋がっているのかもしれません。例えば、ご年配の優しそうな顔のお坊さんが一言ポッと言うと、なんかすごくありがたみを感じませんか?」


「あぁ、なんかわかる気がします」


「あとは、単純に難しいからだと思います。お経って漢文(中国の言葉)じゃないですか。僕らは和文で育ってるから、中国の言葉なんてまずわからないんですよ。

だから、和文にしてロジカルに紐付けしていくことが重要である一方で、ブラックボックスの良いところを損なわないように発信していくのも大切なのかなと思います」


「ブラックなことが全てホワイトになってしまったら、面白みもなくなってしまいますからね」


「実際、『ぶっちゃけ寺(テレビ朝日の番組。現在は放送終了)』でも、最初ウケたのはそこですよね。お坊さんのプライベートな部分とか、何をしてるのかっていうのが未知過ぎて面白かった。

ただ、いかんせん僕は理系人間だから、未知なものは信用できないんですよ。同じように感じる人はいるはずなので、お坊さんのこと、ひいては自分自身を知ってもらうためにもブログは始めましたね」

わかりやすいだけでは、振り向いてくれない


「ブログを続けていて、次に起きたことは本の執筆でしょうか?」


「そうですね。僕のブログは絵文字が多いんですけれども、それって若い方に親しみを持ってもらったり、『何コレ?!」と興味を持ってもらえるように、あえて使っているんです。仏教の深い部分は専門家の先生がいるので、僕が発信できるのは入り口の部分なのかなと思って。

それでブログを書いているうちに、『仏教の知識ゼロの人をイチにするために、ブログをまとめた本を出しませんか』というふうに出版の話を頂いたんです。まとめるくらいならできるかなと思って、安易な気持ちで受けることにしました。そしたら、やっぱり編集の方って上手くて、僕をいい感じに乗せて、めちゃくちゃ書かせるわけですよ(笑)。結局、ブログを参考にする形で全部イチから書きました。

これが、初めての本『理工学部卒のお坊さんが教えてくれた、こころが晴れる禅ことば』を出していただいた流れですね」


「こちらですね。あ、ちょっと持っていただいて……」


「欲が出た坊主ですね(笑)」


「いえいえ、そんな(笑)!」


「ちなみに本を出されたあとって、どんな反応がありましたか?」


「自分で言うのも何なんですが、『わかりやすいですね』『禅って難しいイメージがあったんですけど、実は日常生活にあるんですね』といった言葉を頂きました。

昔から感じていたんですけど、仏教書ってとても難しいんですよ。仏教書を読むのに解説書がいるんじゃないかってくらいに。だから、なるべく平易な言葉で書くことは心掛けていました。あと、僕が本を書いた目的の1つに『暮らしにもっと禅をいれてほしい』ということがあったので、正直嬉しかったですね」


「本は好評だったんですね。では、『ぶっちゃけ寺』の出演は、本を出された後ということになりますね」


「2014年4月に本を出して、『ぶっちゃけ寺』が始まったのは2014年9月ですね。突然、テレビ朝日のスタッフさんからブログを経由して、メッセージが来たんですよ。最初は怪しすぎて、完全に詐欺だと思っていました(笑)。

でも、放送された番組を観ると、知っている芸人さんやお坊さんが出演していたので、一度スタジオに行ってみることにしたんです。それで、あれよあれよという間に上手く持っていかれたというか、自分が乗っかかったというか、継続的に出演するようになりましたね」


「出版のときと同じく(笑)。テレビ出演をして色んな反応があった思うんですけど、そこで気付いたことや、感じたことって何かありますか?」


「僕らお坊さんがわかりやすいと思っている言葉さえ、わかりにくいということを教えてもらいましたね。僕らが当たり前のように『禅僧(禅宗の僧侶)』と言うと、スタッフさんはもうポカーンとしているんですよ。『音楽の前奏ですか?』みたいな。だから、僕らが『これはわかるだろう』と思うのは勘違いであって、奢った心なんだなと

加えて、真摯にわかりやすく伝えることだけじゃなくて、面白みも大事なんだということを痛感しましたね。どんなに良いことを言っても、やっぱりユーモアがないと聞いてくれないものなんです。はははって笑えるものの中に、仏教の教えがあれば、たくさんの人が観てくれる。これが大事なんです。僕らお坊さんはそういう伝え方はあまり上手ではないので、『ぶっちゃけ寺』は勉強の場でもありましたね」


「確かに、お寺だと元々仏教に興味関心のある方ばかりがいらっしゃるから、普段ユーモアはあまり必要ではないかもしれません」


「そうなんです。お寺で話すと大体みなさん聞いてくれるんですよ。でも、それはありがたい環境であって、道端を歩いている人にはユーモアがないと絶対に振り向いてくれない。お坊さんにとっての、布教とは何たるかを考えさせられましたね」


「ユーモアを交えつつ、真摯にわかりやすく。だけど、ブラックボックスな部分をホワイトにし過ぎてはいけない。仏教を発信していく上では、こうしたことが大事になってくるわけですね」

仏教における「幸せ」とは?


「先日インタビューさせていただいた、浄慶寺住職の中島さんが『色んな宗派の違いを知り、個々人に適した“マイお坊さん”を持ってほしい』と仰っていました。そのためDATEMAKIでも、色んな宗派のことを発信していきたいと考えております。こちらは禅宗(臨済宗妙心寺派)ですが、特有の教えみたいなものって何かありますか?」


やっぱり、座禅ですね。座禅によって自分自身を見つめ直し、余分なものを削ぎ落していくのが特徴的です。歳を重ねるにつれ知識や経験が蓄えられていきますが、同時に固定概念や偏見も生まれてしまいます。そうした余計なものを削ぎ落として、本来のまっさらな心に気付くことが座禅の役割の1つですね。

もっといえば、その心持ちを座禅のときだけでなく、日常生活においても維持することが大事です。僕らがなぜ座禅するのかというと、煩悩や妄想、欲望といったものに振り回されない、平安な心を作るためなんです。そして、その平安な心を日常生活にも落とし込むことで、より幸せになれるというのが禅宗の考え方だと理解しています」


「平安な心を作り出そうとするのは、『苦しみから逃れる』という仏教的なスタンスからですね」


「結局、仏教においては喜び過ぎることも苦しみなんですよね。たとえ欲しいものが手に入ったとしても、すぐにまた別の欲しいものが出てくるんです。人間は欲深いの存在なので、どんどん欲望が湧いてくる。

だから、程よいところで欲をストップさせなければならないんです。それこそが、まさに平安な心だと思うんですよ。いかに振り切れらないところに持っていくか、平穏無事でいられるかというのを突き詰めていくことが仏教なのかなと」


「『足るを知る』ということでしょうか?」


「まさにそうです。そうすることが結局幸せだと思います。全てを手に入れたスターが、薬にハマって転落していくことってたまにありますよね。もちろん、お金を稼いだり、地位や名声を得たりすることは良いことなんですけど、それが全てじゃない。『満ち足りている』という心に気付けるかどうかが、その人の幸せに繋がるのではないかと思います」


「何かを得たり、達成したりしたところで、幸せにはなれないと?」


「それを突き詰めてもってことですね」


「なるほど、すごく大切な気付きだと思います。とすると、仏教(禅宗)における『幸せ』って、結局のところ苦しみがないことになるんでしょうか?


苦しみがゼロになるんじゃなくて、起こるけれど、それをコントロールできるようになることだと思います。生きてる限り、お腹は空くし、眠気も来るし、性欲も湧いてくるんですよ。それをコントロールするための手法や教えが仏教であって、そのために座禅をしたり、お経を読んだり、ご先祖様に手を合わせたりしているんです」


「なるほど。苦しみや悲しみは、いつだって起こりえますからね……」

禅を生活の中に入れる重要性


「さきほど、『暮らしにもっと禅を入れてほしい』という話をしていましたが、それは苦しみのコントロールのためでしょうか?」


「それもあります。ほかにも寝る前に5分間ほど座禅をすると、心が安らかになって寝付きが良くなったり。あと、これは経験則なんですけど、仏壇に手を合わせる習慣がある人には、利他の心が育まれやすいんじゃないかなって思います。

ご先祖様ってその場にいないし、手を合わせたからといって試験に受かるわけでも、仕事が上手くいくわけでもない。だけど、それを繰り返すことによって、他人のためのことでも、自分のことのように行動できるようになるのかなと」


「普段からご先祖様を思うことで、他人を思う習慣がつくということでしょうか?」


「そうです。結局、そうしてご先祖様を敬えるかどうかが、日常生活においても人を敬えるかに関わってきます。人間って器用じゃないので、気持ちの切り替えが上手くできないんです。遊ぶときに遅刻する人って、「仕事だと遅刻しない」とよく言いますけど、多分仕事でも遅刻しているんですよ。

だから、普段から仏壇(ご先祖様)に手を合わせることが、他人を思いやるトレーニングになるんです。そういう仏教の行いを日常生活で一つでも取り入れてもらえたらなと」


「心を休めたり、他人を思いやるトレーニングをするためにも、仏教は役に立つんですね」


「やっぱり、この世は理不尽なことばかりですから。上司に理不尽なことを言われたり、理不尽な評価されたりするときもある。一生懸命努力したのに失敗するときもある。自然災害なんかもまさに理不尽ですよね。

でも、普段から仏壇に手を合わせるのも、ある意味で理不尽なんですよ。明らかに理に適っていないことやっている。だけど、それがトレーニングになって、理不尽なことが突然起こったときにも、自分の心が対応できるようになるのかなって思います」

現代において仏教は必要か?


「大昔から現在までずっと続いてきてる仏教ですが、現在において仏教ってそもそも必要なのかなと思っている方も多いかと思います。科学が発達して、様々な哲学もあるので、それで充分なのではないのでしょうか?」


「僕は今の時代だからこそ、仏教は絶対に必要だと思っています。というのは、仏教は心の教育をしてくれるものだからです」


「心の教育?」


「現代社会は心に目を向ける機会が本当に少ないんですよ。スマートフォン(インターネット)でどこでも情報見れるから、常にアンテナが外に向いてるんです。そうしないと、情報社会の中に取り残されてしまいますから。

そうすると、何が起こるかって、自分の心の状態がわからなくなるんです。自分が何を考えてるのか、何が苦しいのかといったことが蔑ろにされてしまうんですよ。

だからこそ、仏教を通じて、そのアンテナを内側に向けていく必要があるんです。仏教は自分の内側で何が起きているのかを観察していくものなので」


「技術が発達して、豊かなりすぎた時代だからこそ、仏教の役割が大きくなると」


「そうです、多くの人が即効性に慣れ過ぎて、心が追いついていないんですよ。例えば、“忖度”という言葉の意味を知りたいとします。昔だったら、偉い先生に聞きに行ったり、図書館で調べに行ったりと、とにかく時間がかかりました。でも、そうした道中の苦労が一緒にインプットされるから、一度覚えたらなかなか忘れないんですよ。一方、今はスマホで調べればすぐに意味が出てきますよね。そうすると、『あーなるほどね』だけで済まされて、感動もないから、すぐに忘れてしまうんです。

ほかにも好きな人ができて、付き合いたいとします。でも、付き合うまでにやっぱり時間がかかるから、ひどくストレスが溜まってしまいます。結果が出るまでにはものすごく時間かかるのに、即効性に慣れ過ぎてるから、すぐに嫌になってしまうわけです」


「とてもわかります。なんでもかんでも、すぐに満たされるのが当たり前になっていますよね」


「そういう世界で育ってるから仕方ないんですけど、一旦手放してほしいなって思いますね。そのために仏教って結果じゃなくて、過程を重んじるんですよ。僕らは集中力が上がるから、座禅をするんじゃないんです。座禅をするから、結果として集中力が上がるだけなんです。結果は後からついてくれば良い

逆に結果ばかりを重んじていると、やっぱり目的と結果の不一致が起きてしまうんです。望んだ結果がなかなか得られないことが苦しくて、生きていることが辛くなってしまうわけです」


「仏教を信仰する・しないに関わらず、心のゆとりを作るためにも、そういった考え方は持っておくといいですね」


「そうですね。心の修養のためにぜひ仏教を“利用”してほしいと思います。仏教の宗派も登山道と一緒で、険しい山道を歩くルートや絶景を眺めながら歩くルートなど、いろんなルートがあります。ぜひ自分に合った仏教を探してもらって、その道を進んでいけば、自ずと頂上が見えてくるかと思います。

ただ、頂上目指して歩くのではなく、『歩いた先が頂上だった』ということが大事ですよ。そうじゃないと頂上に行けなかったとき、ストレスになっちゃいますから」

輸送技術や情報技術が発達し、いろんなものがすぐに手に入りやすくなった現代。しかし、答えを出したり、成果を上げたりするためには、根気強さやアナログな作業が必要となる場合も数多くあります。そんなときに、結果を急いでしまうと、辛くなって全部投げ出したくなる……なんてことも。

仏教による「心の教育」は、そんな方にこそ役に立つものかもしれません。信仰せずとも、“利用”するつもりで座禅を組んだり、手を合わせたりして、禅を生活の一部に入れてみてはいかがでしょう。

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1994年生まれ、大阪出身。DATEMAKI編集長。複数のメディアの立ち上げに関わりながら、ライター・エディターとして活動している。「個の夢が否定されず、それぞれの人が自分らしく活きられる世界」を。