【後編】仏教嫌いだったお坊さんが、仏教を広めている理由とは?「浄慶寺」住職・中島 浩彰さんに聞いてみた

左)野阪 右)中島さん

こんにちは、DATEMAKI編集部の野阪です。

お寺の後継ぎとして生まれ、お坊さんになった人の中にも、お寺や仏教に興味関心を持てなかった人もいるのでは?

そんな疑問から始まった、元・仏教嫌いのお坊さん中島 浩彰(なかじま ひろあき)さんへのインタビュー。

前編では、中島さんが仏教が嫌いだった理由やお坊さんになるまでの壮絶な過去について聞いてきました。

【前編】仏教嫌いだった若者が、お坊さんになるまでの経緯とは? 「浄慶寺」住職・中島 浩彰さんに聞いてみた

後編である本記事では、仏教を好きになれた理由やお坊さんになってから気付いたこと、現在の活動についてお話しいただきました。

極めてリアリズムな仏教「浄土真宗」

中島 浩彰(なかじま ひろあき)さん

京都市中京区にある「真宗大谷派 小野山 浄慶寺」の住職。「ぶっちゃけ・問答(座談会)」や「テラの音(本堂でのコンサートと法話)」、「お寺で宇宙学」などお寺での活動のほか、「国境なき僧侶団」の共同代表(もう1人の代表は杉若 恵亮さん)としての活動なども精力的に行っている。


前回の記事で『京都・仏教・宗教が嫌い』って仰っていましたけど、お坊さんとなった現在はどうですか?」


「全部好きになりました」


「それは、お坊さんになられてからしばらくしてですか?」


「そうですね。この寺の住職になって、1年ぐらいです」


「かなり毛嫌いしていたことを考えると、意外と早い気がします。どうして、好きになったんですか?」


「坊さんをやっているうちに色んなことがわかってきて、純粋に仏教(浄土真宗[以下、真宗])って面白いなと思えるようになったからですね。真宗はある意味で味気ない宗派なんです」


「味気ない宗派?」


真宗は極めてリアリズムに、真実を明らかにしていく教えなんですよ。だから、おみくじとかお守りとか、そういう一般の人が求めるようなものはないんです。

お守りを持ったからといって、事故に遭わないわけでも、病気が治るわけでも、家庭が円満になるわけでもない。例えば、家庭を円満したかったら、お互いの話をちゃんと聴いて理解しようするのが一番ですよ。お守りを買うお金があるなら、家族サービスに使いましょうよ、と」


「すんごい、ごもっともな教えですね」


「おみくじにしたって、そんなもので占っているヒマがあるんだったら、自分の頭でもっと考えなさいと。考えることを放棄して、くじ頼みにしているから余計迷うんですよっていうのが真宗なんですよ」


「自分をしっかり見つめるべきだ、と」


「そうそう。現実から逃れたくなる気持ちもわかりますが、それは迷いのもとになりますから、仏教を通してそれに気づきましょうっていうね」


「この間、『国境なき僧侶団』の共同代表である杉若さんが『仏教は宗教じゃない』と仰っていました。それは、仏教が科学的に真実を明らかにするものだからなんでしょうかね?」

仏教は宗教ではない? 「ボンサン」とは何か、BONZEくらぶ主宰・杉若 恵亮さんに聞いてみた


「そうだと思います。大谷大学で真宗基礎学っていう授業があったんですけど、先生に『真宗っていうのは哲学みたいなものだ。生きるということを考え続けるのが真宗だ』って教えられたんです。私は昔から哲学は好きだったので、その言葉を聞いて授業を受けてみようかなって思えました。というか、4年間で覚えているのはそれだけですね」


「ははは(笑)」


「でも、ほんとそうなんです。もしも『真宗は信仰だ』とか言われていたら、絶対ダメでした。

じゃあ、哲学と宗教の何が違うのかというと、共同体ができるかどうかなんです。例えば、『紅茶を飲むと救われます』っていう考えがあるとしますね。この考えを私1人が信じて、実践しているだけであれば哲学で、この考えを複数の人が信じてくれて、共同体ができれば宗教になるんです。その意味では仏教は確実に宗教になるんですけど、本質としては哲学的で科学的なものなんですよね


「あれ? でも、ちょっと待ってください。仏教には輪廻転生(※)っていう概念がありませんでしたっけ? あれって全く科学的じゃないですよね……?」

※輪廻転生(りんねてんせい・りんねてんしょう)
人は生まれ変わり、死に変わりし続けるという思想。すべての生命は天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の6つの世界をぐるぐると生まれ変わっていく。


よく誤解されるんですけど、輪廻転生は仏教の概念じゃないですよ。主にアジア圏における民族信仰みたいなものです」


「あ、そうなんですね。これは失礼いたしました」


「むしろ、お釈迦様は輪廻転生は苦しみのもとだと仰っているんです。餓鬼道や畜生道に行って地獄の苦しみを味わうこともあるし、天人や人間になっても寿命が尽きるとまたどこかに行く……その繰り返しが苦しみだと。

だから、お釈迦様はこの苦しみから逃れるために、命の行き着く先である『浄土』という概念を創ったわけです。この教えが広まって、仏教になるわけですね」


「なるほど、なんかちょっとスッキリしました!」


「でしょ! スッキリすると、面白くなるから更に調べたくなるわけです。色々知っていくうちに、仏教で行われている全ての行為に意味があることに気付くんです。そんなわけで、いまはお坊さんするは楽しいですよ」

お寺だからこそできること


「中島さんは『ぶっちゃけ・問答(お寺での座談会)』や『テラの音(お寺での法話とコンサート)』など様々な活動されていますけど、こういった活動をはじめたきっかけってなんだったんでしょう?」


「大きく分けて2つありますね。1つは、お寺に対する危機感です。このお寺(浄慶寺)は檀家さんが少ないので、もっと地域の人たちに来ていただいて、交流を持っていかなきゃいけないなって思っていました。もう1つは、自分に対する危機感です。腹を割って何でも言い合える関係がどこかで必要だなって」


「腹を割ってなんでも言い合える関係?」


「本山に勤めていたときに感じたんですけど、世間離れした感覚を持っているお坊さんが多いなと。それって多分、お寺には外の空気が入ってこないからなんです。みんなありがたく自分の話を聴いてくれるから、自分に対する批判とかが全くない。そうなると、どんどん世間の感覚から離れていってしまう。

だから、お坊さんが上とか一般の方が下とかなく、誰もが気兼ねなく思ったことを言い合える場がほしかったんです。それでまず始めたのが『ぶっちゃけ・問答』ですね」

「ぶっちゃけ・問答」の様子。大体10人前後がいらっしゃるのだそう


「なるほど。始めるにあたって反対とかは無かったんですか?」


「『お寺は公(おおやけ)のモノだと思うから、檀家さんに限らず、どなたでもご参加いただけるモノにしたい!』と企画を上げたら、家族はもちろん、檀家さんからもめちゃくちゃ反対されましたね。『誰が来るかも分からんのに大丈夫なんか?!』、『泥棒が来たらどうするの?!』って。けれど、『全て私の責任でやります!』と言って、強引に始めました。2年目くらいでメディアに取り上げてもらえたんですけど、そこから『ええことしてるなぁ』って言われるようになりました」


「反対されながらも、それまでの間よく続けられましたね……!」


「でも、やり続けていく中で学んだことは多かったですよ。それこそ『どなたでも来てください』っていうのは、本当に大変なんだなって思いました。始めた当初、私は“どなたでも”を想定できてなかったんです。

いま、こうしてコミュニケーションを取れているのって、全然“普通”じゃなくて、かなり“特殊”なことなんですよ。ある程度の知識レベルが一致している人が集まっているから、成り立っているだけで、全ての人が同じようにコミュニケーションを取れるわけじゃないんです」


「確かに、コミュニケーション取ることが難しい人も、多くいらっしゃいますよね」


「そうそう。正確に言葉を話せない人がいたり、言いたいことがまとまらない人がいたり、長時間座ってられない人がいたり、色んな人がいるんです。そういう人たちが話を遮ったりすることもあるわけです。だから、不快に思う人もいるんじゃないかって心配だったんですけど、みなさん普通に受け入れてくれるんです。

これって『場』の力なんですよ。お寺という場でみんなが『話したい!』という願いを持ってきてくれはるから、成り立っているんです。お寺じゃなかったら、うまく話せない人はそもそもいらっしゃらないかもしれないし、他の人の話に耳を傾けようともしないかもしれない。こういうことがお寺の大きな意義ですし、大事にしたいところだなって思います」


お寺が人々の居場所を作っているわけですね」


「そうです。そういう居場所が色んなところにできればいいなって思います。でも、なかなか広がらないんですよ」


「なんで広がらないんでしょうか?」


「うちのお寺でも最初起きたように、色んな反対があるんでしょうね。その反対を押しのけて、リスクを背負ってまでやりたい人が圧倒的に少ないんですよ。月1回でも、半年に1回でもそういう場を開いてくれたら、色んな人の役に立つだろうし、仏教にも良いイメージを持ってもらえると思うんですけど」

切り口を変えて発信する重要性


「『ぶっちゃけ・問答』にいらっしゃる方は常連さんが多いですか?」


「8割くらい常連さんですね。でも、面白いことに、お寺で何か法事をするとご年配の女性が多いのに、『ぶっちゃけ・問答』ではご年配の男性が多いんです。

知り合いの若いお坊さんも同じように『アラサー僧侶とゆるく話す会』というの始めたんですよ。京都の町家を借りて、3人ほどお坊さんを呼んで、一緒に話しましょうって会なんですけれど、そこは若い女性が多いんですよ」


「へぇー、どうしてでしょう?」


「『町家』と『アラサー僧侶』ってところで、若い方に好印象を持たれたんだと思うんですけど……それが悔しくて」


「ははは(笑)」


「『こっちはおっちゃんばっかりやのに!』って(笑)。だけども、そこからヒントを得たこともあります。『アラサー僧侶とゆるく話す会』では、町家で2時間ほど話したあと、『時間がある方はこの後、居酒屋で飲みながら話しましょう』って居酒屋に行くんです。すると、やっぱり飲みながらの方が話しやすいのか、色んなことを喋ってくれはるんですよ。

だったら自分も飲める場所を作ろうと思って、お寺の蔵をDIYしてバーを作ったんです。それで、『アラフィフ僧侶とアダルトな夜』という会を始めたら、女の子が来てくれるようになりました!」

「アラフィフ僧侶とアダルトな夜」の様子

こちらでは、女性の方も多くいらっしゃいます


「すごいですね(笑)」


「やっぱり、切り口とかネーミングで客層は違ってくるわけです。世の中には、お坊さんと話をしたいけど、どうやって話に行ったらいいのか分からない人って多いんですよね。『ぶっちゃけ・問答』にしろ、『アラフィフ僧侶とアダルトな夜』にしろ、色んな場を用意することでそういう人も来やすくなると思うんです」


「確かに、お坊さんってどこで話をしたらいいか分からないです。お寺に行ったら、迷惑がられるんじゃないかって不安もありますし……」


「時間が空いていれば、いつでもお話しますよ。お寺はカウンセリングの病院でも、弁護士事務所でもないので、別にお金なんて求めていません。どんな人でも来れるっていうのが、お寺の良さだと思うんです。

ただ、一部には急に来られるのを嫌がるお坊さんもいらっしゃいます。連絡もなしに素性の知れない人がいらっしゃるのは恐怖でもあるんですよ。自分の家族や大事な仏像、仏具のことを考えたりすると」


「まぁ事前に連絡して、行って大丈夫か確認を取るべきですね」

「気持ち」を視る目を失くしがちな現代人


「異なる切り口の1つに『テラの音』があると思うんですけど、これはどういう発想で始めたんですか?」


「『テラの音』は、あるイベントで出会った音楽家の方に、若手演奏者の現状を聞いたことがきっかけですね。

演奏者としての技術を保つためには、定期的に演奏会をしないといけないらしいんですけど、人集めや場所の確保が大変なんだそうです……。

若手演奏者の方々には、確かな演奏技術と演奏したい気持ちはあるけれど、場所とお金がない。一方、お寺には仏教の教えや場所はあるけれど、お金はないし、人も来ない。

だったら、お互いあるものを出し合って、ないものは目をつぶりましょう。実際、どのくらいの人が来るかもわかりませんが、自分たちが持っている確かなモノを信じて任せましょう。結果がどうであれ、私たちは仏教を伝えられる・演奏できること自体が喜び(報酬)になりますよね、ということで『テラの音』が始まりまりました」

バイオリン・チェロ・コントラバス・ピアノのアンサンブルコンサート

津軽三味線のデュオも。「テラの音」では、様々な音楽家がコンサートを行っています


「理想的なWin-Winの形ですね」


「そうなんです。現代ってお金や場所、コンテンツ、人といったものが全部揃わないと、なんにもできないと思われがちですが、“あるもの”に目を向けて、一歩踏み出してみるとできることもあるんですよ。

『テラの音』は結果として、たくさんの方々がいらっしゃいました。それで、来てくださった方を“ただ聴きに来ただけの人”にせず、“『テラの音』をともに作り上げるメンバーの1人”として参加してもらえるようにと、お布施をいただくことにしたんです。

『運営するのにもやっぱり費用がかかるので、もしこの会を良かったな、またやってほしいなと思っていただけましたら、そのお気持ちをいただければ幸いです』と話して、ザルを回していくんです。すると、お金を入れてくれはる人が多くいらっしゃって、運営にかかる最低限の費用は、そこで取りまかなうことができています」


「すごい! どこにも負担がかかっていないじゃないですか!」


「この会自体、まさしく“お布施”の精神で成り立っているんです。お布施は自分の精一杯の施しであって、お金の大小は問題じゃないし、そもそもお金じゃなくてもいい。私はお寺という場と仏法を提供できるし、若手演奏者の方々は音楽を提供できる、来てくださった方々はお金(気持ちの表現としての)を提供できるわけです。

その意味で、仏教はお金では測れない価値観を持っているんです」


「気持ち的な部分ですね」


「そうそう、『“気持ち”なんて、わからんやん!』と言う現代人は多いですけど、“気持ち”すらわからないのって相当危険なんですよ

私たちは気持ちを視る目を失くしていて、なんでも数値をつけてハッキリさせようとするんです。そうすると、ハッキリしないものは、ぜんぶ胡散臭くなって切り捨ててしまうようになる。私たちは仏教を通して、そういう形のないものを伝えていきたいなって思います」

それぞれの人に「マイお坊さん」を


「最後に抽象的な質問になるんですけれど、中島さんとしては、これからのお坊さんはどうあるべきだと思いますか?」


「『ぶっちゃけ寺(テレビ朝日の番組。現在は放送終了)』に出させていただいて思ったんですけど、メディアをもっと使わないといけないなって。お坊さんは発信力が弱くて、大事なことをやっているのに、知られていないことが多いんです。そういう大事なことがもっと知られたら、仏教で救われる人も増えるだろうなって」


「宗教や仏教に良いイメージを持っていない人もいらっしゃますし」


「そうそう。かつての私と同じように、仏教や宗教に無関心な人も多くいます。でも、私は仏教に触れてみて、面白いと思うようになったし、『辛いな、しんどいな』って思っていたことも、違った捉え方ができようになりました。

たぶん普段生きている中で、仏教・宗教って必要ないんです。ただ、苦しいときにちょっと助けが欲しくなることもありますよね。そのときに仏教があればいいなって」


「なんとなくイメージできるのですが、『仏教で救われる』というのはどういうことなんでしょう?」


「仏教を病院と同じように考えていただければ、わかりやすいかと思います。例えば、お腹が痛くなったとき、野阪さんはどこに行きますか?」


「まぁ、内科とか消化器科とかの病院に行きますね」


「そうですよね。お腹が痛くなったときに、整形外科に行っても仕方ないですよね。私たちには『お腹が痛くなったら内科(消化器科)に行けばいい』という知識があるから、たくさんある診療科のなかから内科(消化器科)を選んで、病気を治せるわけです。

それと同じで仏教にも、いろんな宗派があって、宗派ごとにいろんな切り口があります。ある人は真言宗で救われるかもしれないし、ある人には浄土宗が響くかもしれない。その予備知識があれば、しんどいときに仏教の教えを救いにできるようになるし、『この宗派のお寺に行ってみよう』って思えるようにもなります」


杉若さんも、『どの宗派も人によっては救いになる』と仰っていましたね」


「そうそう。仏教全体で色んな人を救うことができたらなって思います。そのためには、やっぱりメディアを使って、お寺や仏教を身近に感じていただくことが大切です。日本全国にお寺はたくさんあるので、それこそ、かかりつけ医みたいなかんじで、『マイお坊さん』がいるといいなって」


「『マイお坊さん』いいですね! 僕も欲しいです!」

「仏教」と聞いて、良い印象や興味関心を持てない方も多いかもしれません。僕自身、「意味不明なお経をあげている、難しい宗教」というイメージがありました。

しかし、こうしてお坊さん数名にインタビューさせていただくようになって、そのイメージは大きく変わりました。いまは仏教的な考え方は、科学が発達した現代にも十分通じるし、多くの人々の助けにもなると思えます。

そう考えると、単に知らないだけで「仏教なんて訳がわからない!」といった偏見や先入観を持つのは、非常に勿体無いことではないでしょうか

偏見や先入観を捨ててみれば、かつての中島さんのように仏教嫌いな方でも、仏教の面白さが見えてくるかもしれません。

by
1994年生まれ、大阪出身。DATEMAKI編集長。複数のメディアの立ち上げに関わりながら、ライター・エディターとして活動している。「個の夢が否定されず、それぞれの人が自分らしく活きられる世界」を。